変わってしまうものに気づいて悲しさを覚えることが増えた。
例えば、好きな投稿者さんの動画が非公開になってしまったり、編集スタイルが変わったり。お気に入りだったのになあと密かに落ち込んで、抱いていた親しさが薄れてしまう。
好きという感情を抱いて、変わらないでくれと願って、変わったことに悲しさを覚えるのは全て自分勝手な感情とも言えるかもしれない。
他人だけじゃない。ここ数ヶ月なのかここ数年なのか、自分は変わってしまったなあとぼんやり思っている。
何が変わってしまったのかはっきりとわからないけど、変わってしまったという感覚だけは確かだ。変わることは決して悪いことではないけれど、どことなく戸惑いを感じているということは、案外これまでの自分のことも好きだったのかもしれない。
変わることを過度に恐れて自分も知らぬ間に悪いように変わってしまうよりは良いのだろう。でも、何が私を変えてしまったのだろうか。
いずれにせよ、変わってしまった全てが元に戻ることはないだろう。自分自身もそうだ。未だ大きく揺らぐ世界のなかで、私は変わってしまった何もかもを愛せるだろうか。
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愛ってなんだろう。
"幸せでいてほしい、今日も笑っていてほしい"と願うこの感情が愛だと知ったのはここ半年ぐらいだと記憶している。イルミィさんのツイートやブログでこういうことを何度か目にするようになって、なるほどなあ、なんてストンと心の中に収まった。なるほど、これは愛なのか。
それでもなお問いは続く。
別にきっちりと定義する必要はないだろうけど今までぼんやりとしたまま使ってきた言葉だから、あるいはそもそもこの言葉を耳にすることが多くなったから自分のなかで確かめたくなってしまう。
中野公演の本編最後に「僕たちの気持ちです」という前置きから始まった曲。Flower Wind。
なぜこの曲なんだろう、と私は思った。
コロナ禍において私たちファンへのメッセージとして象徴的に歌われてきた曲はいくつかあって、陽之鳥やPolarisはもちろんのこと、むしゃむしょサンキュー、あすの日に灯をともそう、共にあるように、などなど。その曲が作られた当時のメッセージとはまた違う色を載せて歌われているんだな、と思って聴くことが多い。
でもこの曲はいわゆるウェディングソングで「愛してるよ」というフレーズが繰り返される。前述したような曲たちとは毛色が違って明確に結婚式というシチュエーションが示されている。ここでは結婚しようなんて意味合いで歌われるわけはないし。
一度気になったら止められず、考えつつもパフォーマンスを楽しんでいてふと、思い至った。
彼らは、言葉そのまま「愛してるよ」と伝えたいんじゃないか、と。
そして、その気持ちを伝えるためにこの曲を選ぶ彼らの気持ちの深さを考えたら、愛と形容するには足りないそれ以上の何かではないか、と。
これは私個人の考えに過ぎないし、実際にどんな感情の元で選ばれたのかなんて全く知らない。こうであったらいいなという私の願望込みとも言えるだろう。
それでもこういうことであるとするならば、"返す"とかそんな言葉じゃ足りない気がした。ただでさえ貰ってばかりなのに。
曲が終わってアンコールの拍手が鳴り響く中、この感情を忘れたくなくてマスク越しに大きく息を吸った。誰にも見えないけど自然と笑みが溢れた。
幸せだなあ、と思った。
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マスク生活*1が始まってからというものの、彼らが涙ぐむ姿を多く見るようになった気がする。もちろん悲しさや悔しさで流す涙もあるだろうし、今回のツアーファイナルや先の幕張公演にてそれとは違う感情で涙を流しているのかなと思う場面もあった。感動、と括っても間違ってはいないがもう少し細かくしてみるとこれはなんだろう。
彼らは変わったのだろうか。それともファンである私たちが変わってしまったのだろうか。
私は双方ともに変わってしまったのではなく、見えない、会えない環境のなかでよりお互いに向ける気持ちが強くなったのかなと思っている。
彼らが元々持っている優しさや誠実さはきっと変わっていない。そんな気がしている。
これに名前をつけるならなんだろう。何と呼べばいいのだろう。
きっとそんな必要はないんだろうけど、ついつい探してしまうのは言葉によって惑わされ救われる人間の性かもしれない。
受け取ってもなお飾り切れない花束のようだ。両手いっぱいに、抱きしめきれないほどの。*2