夜空は嘘をつかない

難しいことは後回し

陽炎と天秤

 

夏の終わりはブログを書きたくなりますね。と言いつつ7月以降4本目のブログという驚異の執筆スピードを見せているわけですが、私がブログを書く理由の一つは「忙しさや疲労にすぐに足を取られて大切なことを忘れてしまうので、思い出せるようにしたい」というものです。こんなに書きたくなるぐらい大切なことが私の周りには溢れているともとれるでしょう。

 

去年の夏が相当楽しかったので今年も楽しく過ごせるだろうと思っていて、実際あまりにも楽しく過ごせました。寂しさは常に付きまとうけれど、どのライブ、どのイベントに足を運んでも楽しかった!!と毎回言いつつ帰路につけました。なんでしょうね、彼らのライブでしか得られないこの多幸感って。ひとりで観ても楽しいし誰かと観ても楽しいし、ひとりで帰っても幸せだし誰かと帰っても幸せだし。楽しさと幸せと寂しさと祈りを詰め込んで全速力で走る夏は生きているだけで暑くて、濃密で終わらないでほしくてでもあっという間に過ぎ去って。ひとりでいたり、誰かといたり、いろんな形の中で日々を織り成し進んできたこの愛しき季節に、別れ難さを感じるほど。

蝉も暑さも結構苦手だから夏は好きじゃなかったはずなのにな。人ひとりの好き嫌いを変えてしまうほどのパワーを持った人たちに出会ってしまったということ、一生忘れないんだと思います。忘れないどころかこれからもずっと自分の人生にあり続けるんだろうなと、確信しています。

 

人生と言えば。

最近推しが「みんなの人生に寄り添いたい」と以前よりしきりに口にしています。彼の言うこの言葉はどんな状態を指すのでしょう。立場違えばプロポーズのような言葉だし、案外抽象的で解釈を迷うものです。例えば全国各地でライブやイベントを行うすなわち足を運ぶということって”アイドルが会いに行く”という言葉で済んでしまってもいいと思うのですが、彼らからすれば”できるだけ近くに来た”という言葉に留まるわけで。だから会いに来て、とその後に当然のように口にするところに私たちの想像を容易く超えてくる認識があるのだと思わざるを得ないなと心の底で思うのです。これは一個人の解釈に過ぎませんが彼の(はたまた彼らの)言う「人生に寄り添う」という言葉の意味は、日々に溢れる様々な感情や出来事を共有して、時には共に涙して慰めあって生きていくことなのかなと。それが配信でのコメントとのやりとりだとか、特典会での他愛もない会話だとか、ライブ中の視線やコールだとか、形はいくらでもあるでしょう。それら全て特別だけど当たり前とすることがその、寄り添うという言葉に相当するのではないかと思うのです。

自分が自分を尊重し、楽しむ姿を見せることが恩返しだと考えている自分がここにいて、それでも「これが最後の〇〇かもしれない」と怯えるときがあります。最後と思うと後悔したくないという気持ちが出てきてしまって欲張りな自分に途方に暮れて。雑多なる日々のあれこれを推し測る間もなく飛び出して、全速力で向かうその先であなたの人生にもちゃんと寄り添っていたいんです。私が私でいることは日々の中で特別だけどあなたの前では当たり前にし続けたい。

 

全て現実であることに間違いはないけれど、暑さと熱さの果てに揺らめく幻だろうといっそ構わないと思えるほどに溢れるほどの感情に出会い月日は過ぎた。

この天秤は傍から見れば狂っているように見えるだろうか。とっくのとうに判断力を失って猛スピードで走る様はある種の滑稽とされるか。幾つもの季節を得て強かに強欲になった私の天秤は最終的には”人生の正解”に傾くことを誰よりも自分が、知っているので。

彼らのことを語るにおいて愛という言葉ばかり使ってしまうのでそれをあえて使わず思考し書いてみましたが、それでも最終的には愛に行き着きますね。その愛で敷き詰められた日々を歩いて、そしてそれに全力で返す様をまた、信頼と呼ぶのだろうと思います。

 

2023 夏の終わり