夜空は嘘をつかない

難しいことは後回し

途切れぬ憧憬

 

 

Q.推しの日をきっかけにブログを始めた私ですが、にーちゃんについてのエントリで「野崎さんについてはまた今度」と書いてから何ヶ月経ちましたか?

 

 

A.2年5ヶ月です

 

 

 

 

 

 

いつか書こう、自分の中で今だ!というタイミングがきたら書こうと思ってたらこんなに経ってました。間空きすぎじゃない?あくまでも自分との約束とはいえちょっぴり反省してます。

推しの活動○周年に合わせてとか、誕生日に合わせてとか、グループの大きいライブに合わせてとか、そういうタイミングでブログ上げてるみなさんを本当に尊敬してます。書こうと思うことはあるのですが、いざそうなるとなんだかまとまらなくて結局書かず仕舞いなんですよね。難しい。

本当はお祝いの形はなんだっていいのです。グッズやメンバーカラーでお部屋を飾り付けしたり、ケーキを作ったり、イラストを描いたり。お祝いの気持ちを形に残せる人たちってすごいなあと記念日の度に思います。私は毎年誕生日に間に合わない手紙を書くのと、推しの誕生日という大義名分でケーキを買ってきて食べるだけです。なんとなく気恥ずかしいのかもしれません。でも人間というものは至って流動的だし、今抱いたお祝いの気持ちを日々に流されて忘れてしまってはなんだか勿体無いなと思いました。今年は。

そういえばブログで書いてなかったなと思い出したのと、お祝いの形としてひとつ残しておきたいなと思ったのが今回執筆に至った理由です。あと推しは年男なので(?)。

 

 

私にとって野崎さんは、推しであり大好きなのはもちろん、信頼している人で憧れの人でもあります。歳が一回り以上離れているのもありますが少し上を見上げるような気持ちになる憧れの人です。親近感も抱いていますが、やはりこういう大人になりたいなと思わせてくれる人です。

どうしても変人なところ(※あえてはっきり書いています)が目立ってしまうような気もしますが、人に伝える力の高さ、自分から表には出さないけれど努力を惜しまない姿勢、褒められるとそのあとの語り口に嬉しさがにじみ出てしまうところ。挙げきれないほど野崎さんの素敵なところはたくさんあります。誠実でいると同時に時には等身大の姿を見せてくれるところが何より信頼できるのかなと思います。

 

 

野崎さんを見ていると「私はこの年齢になったとき、こんなに思慮深い人になれているのだろうか?」とふと考えてしまいます。いや、なれないな。

今年の春先のブログで「この年齢になってもまだまだ知らないことがたくさんある」という話がありました。特典会でお話していて感じるのが、”知らない”ことを感じさせない想像力の豊かさです。思い悩んだタイミングが重なってたまに突拍子のない悩みを零してしまっても、寄り添って言葉をかけてくれるのが野崎さんです。こちらがなかなか話し出せない時はゆっくり待ってくれます。野崎さんと話す時間は体感としてゆっくりしていて、私はそんな時間が大好きです。いつも私の話を聞いてくれてありがとうございます。

言葉にすることだけが思慮深さではなく、時に沈黙を共にすることもまた思慮深さである。野崎さんと話す度に実感します。

 

 

「わたし、野崎さんの考え方が好きなんです」といつしか伝えたときに、少し照れながら「こんな僕みたいな人に憧れるところある?」と遠慮がちに言っていたのも大好きです。

たくさんあります。私はあなたを見て、いつだって前を向くことができているので。

あなたみたいになりたいって少し重いかもしれないけれど、あなたみたいに素敵な歳の重ね方をしたいなと思います。これからもどうかありのままでいてください。

 

 

 

 

 

野崎弁当さんへ 36歳の誕生日おめでとうございます

楽しいことで溢れかえる幸せな1年間になりますように

お祝いの気持ちを込めて。

 

 

 

 

 

 

月の満ち欠けを眺める

 

 

今年1年がどんな年だったかと振り返ってみたのですが、結局一言で言い表せませんでした。ちなみに去年のブログでも言い表していません。去年は書きたいことがありすぎて話の接続もできなかったので、とりあえず並べてみよう方式でああなりました。

どんな1年だったかなあ。いろんなことがありすぎて「これ本当に1年分の思い出か?」と疑いたくなるくらいなのは確かです。幕張なんて遥か昔だし、その前の100日カウントダウンなんて言わずもがな。学生としてすごく忙しい1年間でもあったので余計にそんな気がするんですかね。

それでも推したちがいたことで「あの時期はあれをしていたな」と思い出せるのが嬉しい。ライブに行ったとか特典会に参加したとかだけじゃなくて、推しのあの言葉を胸に日々頑張ったなとか、日常の各所に思い出があります。ただただ生きていたら漠然と過ぎ去ってしまいそうな日々がちゃんと心のなかに残っています。なんだかんだ推しを想う1年間でした。

あなたにとって、2021年はどんな年でしたか?

 

 

推しを想う1年と書いたものの、推しにリプするのは結構気まぐれでしたし、手紙は誕生日の時しか書きませんでした。特典会には何回か参加しましたが上手く話せたかというと正直微妙です。

あれこれ言っておきながら結局私は自分の言葉に自信が無くて、そもそも自分のことを認めるのが苦手です。自分を上手く認められないから誰かに言葉を向けるのもあまり得意ではありません。そもそも普段の私は何か思っても面倒くささと無駄を考えて押し黙ってしまうので、こういうときどうすればよいのかよくわかりません。接触に参加し始めてから2年経っているのですが。少なくとも器用ではないです。

ひとりであれこれ書くのと、本人を前にして(本人に伝わるツールで)言葉にするのは全然違いますね。改めて実感しました。でももしかしたら、こうやって思い悩むのもちゃんと人と人のやりとりだからかもしれません。

色々と躊躇が多かった今年ですが、来年はもうちょっと手紙を書こうかな。もう少し肩の力を抜いて話せたらいいな。

 

 

それから、今年はライブにも特典会にも行けたのですが、去年よりも「しんどいな」と思っていました。

なにがしんどかったかって"届きそうで届かない"という感覚です。オタクによって状況は様々ですが、私の場合は距離としては遠くないのに抱えている状況や肩書を考えると行けない、でした。事実、幕張も行けるかわからないなか申し込んでギリギリまで足を運ぶか迷いました。

場合によってはライブ会場の方が大学より近いのにな、予定も合うのになと思いながら自分の抱えているものを見つめてため息をついてしまう。こうやって躊躇するのも、そもそも考えすぎなんじゃないか?行こうと決めてチケットを取っても、「行きます」と気軽に推しに伝えられない自分がいました。だってこれが嘘になってしまったら怖い。

世界が前進を見せたが故に去年とは違う感情を抱きました。

自分が欲張りなのかないものねだりをしているのか、それとも然るべき感情なのか。答えは出ないままです。

 

 

ここまで書いて、今年のブログで接触エピソードを語っていないことに気づきました。いや別に義務ではないんですけどね。そもそも今年はブログをあまり書いていませんでした。せっかくなのでここに書き記しておきましょう。

ひとつ印象的な出来事がありました。つい1か月前の話です。

その日ははじめましてから約2年のタイミングで、加えてお話しできるのは今年最後というタイミングでした。2年経ったんですよと話して、この2年間楽しかったです、あなたみたいな大人になりたいからこれからも頑張りますと伝えました。

推しからの返答は、これからもあなたのこと応援させてね、支えさせてねでした。

……これ逆じゃない?私から推しに伝えることじゃない?もちろん私からも伝えたのですが。推しから言われることって、ある???

つくづく推しには敵わないなと思います。これはきっと来年も変わらないんじゃないかな。

 

 

 

 

来年はどんな1年になるかな。

…わたし実は、やりたいこといっぱいあります。現実だけを見れば難しいのかもしれないけどまあ未来なんてわかりませんし、希望を持ったっていいですよね?言霊だってありますし。

例えば遠征とか。仙台名古屋なら案外遠くないから勢いで行けるんじゃない?でも大阪も福岡も行きたいな~~~なによりGALAXY.5で北海道と茨城に行く予定だったのでそれも達成したい!!!ちょっと欲張りすぎですかね、でもこれくらいがきっといい。国内外関わらず各地のおいしいものを食べるのが好きなので、来年は自分の足でそれを実行したいのです。推したちがいろんなところに連れてってくれるんじゃないかと信じています。

あとは連番をしたいんです。実はやったことなくて……これもG5でする予定があったのですが残念ながら叶わず。今年は自分の予定が不安定だったこともあり(そもそも人見知りなのもあり)誰かに声をかけることもできませんでした。でも来年は!やりたい!その場で誰かと感覚を分かち合いたいです。

もうひとつあります。今年はやっぱりこういう状況だから現場で誰かとお話しすることもあまりありませんでした。もちろんライブや特典会が主な目的ではありますが、それと同じくらい行く先々で誰かと出会って話すのが楽しみなんです。元々繋がってたフォロワーさんにはじめましてするのも、会ったことある方にひさしぶりの挨拶をするのも、友達の友達という形で偶然の出会いがあるのも、全部ぜんぶ大好きです。人見知りではありますが(2回目)人とお話しするのは大好きです。だから来年はそんな機会がたくさんあることを願っています!もっと気軽に声をかけられる状況になっていますように!まだ見ぬ出会いが楽しみですね。

 

ついつい来年やりたいことの話が長くなってしまいました。

来年はもうちょっと自分に素直になってみようかな。

 

来年も自分の原動力が「愛」とか「好き」とかそういうものであったらいいなと思います。

 

みなさん今年もおつかれさまでした!来年も健康に幸せに過ごせますように。

最後にどうしても紹介したかったので、今年大好きになった曲*1の歌詞をお借りして終わりにしたいと思います。

僕らが疲れるなら これ以上無いなら

その度に何回も逃げ出せる様に

心が守れるように 奪われないように

互いに託して 身体を預けてよ

今年もありがとうございました。それではみなさま、よいお年を。

*1:私ずっとこの曲の話してる。でもそれくらい大切な曲で、大切にしたいことを歌ってくれるのです。

https://www.youtube.com/watch?v=3sEptl-psU0

両手いっぱいに、抱きしめきれないほどの

 

 

変わってしまうものに気づいて悲しさを覚えることが増えた。

例えば、好きな投稿者さんの動画が非公開になってしまったり、編集スタイルが変わったり。お気に入りだったのになあと密かに落ち込んで、抱いていた親しさが薄れてしまう。

好きという感情を抱いて、変わらないでくれと願って、変わったことに悲しさを覚えるのは全て自分勝手な感情とも言えるかもしれない。

 

 

他人だけじゃない。ここ数ヶ月なのかここ数年なのか、自分は変わってしまったなあとぼんやり思っている。

何が変わってしまったのかはっきりとわからないけど、変わってしまったという感覚だけは確かだ。変わることは決して悪いことではないけれど、どことなく戸惑いを感じているということは、案外これまでの自分のことも好きだったのかもしれない。

変わることを過度に恐れて自分も知らぬ間に悪いように変わってしまうよりは良いのだろう。でも、何が私を変えてしまったのだろうか。

いずれにせよ、変わってしまった全てが元に戻ることはないだろう。自分自身もそうだ。未だ大きく揺らぐ世界のなかで、私は変わってしまった何もかもを愛せるだろうか。

 

***

愛ってなんだろう。

"幸せでいてほしい、今日も笑っていてほしい"と願うこの感情が愛だと知ったのはここ半年ぐらいだと記憶している。イルミィさんのツイートやブログでこういうことを何度か目にするようになって、なるほどなあ、なんてストンと心の中に収まった。なるほど、これは愛なのか。

 

それでもなお問いは続く。

別にきっちりと定義する必要はないだろうけど今までぼんやりとしたまま使ってきた言葉だから、あるいはそもそもこの言葉を耳にすることが多くなったから自分のなかで確かめたくなってしまう。

 

中野公演の本編最後に「僕たちの気持ちです」という前置きから始まった曲。Flower Wind。

なぜこの曲なんだろう、と私は思った。

コロナ禍において私たちファンへのメッセージとして象徴的に歌われてきた曲はいくつかあって、陽之鳥やPolarisはもちろんのこと、むしゃむしょサンキュー、あすの日に灯をともそう、共にあるように、などなど。その曲が作られた当時のメッセージとはまた違う色を載せて歌われているんだな、と思って聴くことが多い。

でもこの曲はいわゆるウェディングソングで「愛してるよ」というフレーズが繰り返される。前述したような曲たちとは毛色が違って明確に結婚式というシチュエーションが示されている。ここでは結婚しようなんて意味合いで歌われるわけはないし。

一度気になったら止められず、考えつつもパフォーマンスを楽しんでいてふと、思い至った。

彼らは、言葉そのまま「愛してるよ」と伝えたいんじゃないか、と。

そして、その気持ちを伝えるためにこの曲を選ぶ彼らの気持ちの深さを考えたら、愛と形容するには足りないそれ以上の何かではないか、と。

これは私個人の考えに過ぎないし、実際にどんな感情の元で選ばれたのかなんて全く知らない。こうであったらいいなという私の願望込みとも言えるだろう。

それでもこういうことであるとするならば、"返す"とかそんな言葉じゃ足りない気がした。ただでさえ貰ってばかりなのに。

 

曲が終わってアンコールの拍手が鳴り響く中、この感情を忘れたくなくてマスク越しに大きく息を吸った。誰にも見えないけど自然と笑みが溢れた。

幸せだなあ、と思った。

 

***

マスク生活*1が始まってからというものの、彼らが涙ぐむ姿を多く見るようになった気がする。もちろん悲しさや悔しさで流す涙もあるだろうし、今回のツアーファイナルや先の幕張公演にてそれとは違う感情で涙を流しているのかなと思う場面もあった。感動、と括っても間違ってはいないがもう少し細かくしてみるとこれはなんだろう。

彼らは変わったのだろうか。それともファンである私たちが変わってしまったのだろうか。

私は双方ともに変わってしまったのではなく、見えない、会えない環境のなかでよりお互いに向ける気持ちが強くなったのかなと思っている。

彼らが元々持っている優しさや誠実さはきっと変わっていない。そんな気がしている。

 

 

これに名前をつけるならなんだろう。何と呼べばいいのだろう。

きっとそんな必要はないんだろうけど、ついつい探してしまうのは言葉によって惑わされ救われる人間の性かもしれない。

受け取ってもなお飾り切れない花束のようだ。両手いっぱいに、抱きしめきれないほどの。*2

 

 

*1:とある年上の知り合いがこの言い方を使っていて素敵だなと思いました。自粛生活やコロナ禍という言い方もありますが、なんとなく暗いイメージが付きまとってしまう気がする。同じ事象でもこういう言い換えでイメージが少し変わるのっていいですよね。

*2:余談ですが、推しにはじめましてしたときのことを書いた幻のブログのタイトルは「名前のつかない花」でした。偶然の回収。

見失わずトゥルーエンドまで

 

 

 

 書いたはいいけどあまり人に見せられたものじゃないかなと思って大部分を削ろうかとかなり悩んだのですが、削ってしまうと曖昧になってしまう気がしたのでこのまま残しておくことにしました。支離滅裂な気もするけどまあ、許してください。

 

 

 

 

 

個人的な話だが、この情勢において全国の学生と比べれば置かれている状況が相対的に恵まれていた。ネットやテレビで大学に満足に通えない学生の声を何度も目にして、”恵まれている”自分は文句も何も言ってはいけないと思ってしまうことが多かった。

この1年余り、学生さんは若い人はかわいそうと言われ続けると同時に、学生だからしょうがないねと言われ縛られるようなことも少なくなかった。そうだよね、しょうがないよねと認めてしまうのがある意味正しいし楽なんだろうけど、そうやって押し付けられたすべてが「学生だから」の一言で鵜呑みにできることばかりではなかった。見え隠れする理不尽に苦しんだ。苦しかった。

 

 

それでも私は私を続けなきゃいけなかった。私を続けるために、私を確からしくするために、どうしても彼らの大舞台を観に行きたかった。数か月前から楽しみにしていて、学生としての自分が4月になってどうなっているのかもわからなくて、未来に何ひとつ保証はなかった。行けるという未来を信じてその未来を信じることで私は自分自身の未来もまるごと信じたかった。グループのカウントダウンに乗っかって自分もちょっとしたカウントダウンをしていたのも、ある種の賭けだった。100日でなくとも、1か月先のライブにさえ行けるかわからなくてもどかしかった。先が見えなさ過ぎてFC1次で申し込む勇気がなかった。行きたいという気持ちだけで行動できない自分ではもう純粋な子供ではなくて、自分の立場を冷静に鑑みていつでもそれに従っていられるほど理性的な大人でもなかった。どちらにもなれなくて、ただでさえ苦しいのに優等生のふりをし続けようとする自分がとてつもなく嫌だった。優等生でいたって結局誰も守っても救ってもくれないのに、そういようとする自分が大嫌いだった。このどうすることもできない感情のすべてがくすぶり続けているのに、言葉は呪いにも刃にもなりうると身を持って知っている私はそれを怒りとしてどこかにぶつけることができなかった。結果として自分を呪うしかなかった。まだ学生であるとはいえこういう立場なのに、こういう状況なのに、行くことを辞めるという選択も残っているのに、観に行こうとしている自分は正しくないのだと思うことにした。でもこの思考を言葉にするのも正しくないと思って、心の中でひとり抱え込んでおくことにした。「楽しむと決めたからには対策は怠らない」と言葉にしてそのように行動していてもこの思考は消えてくれなかった。呪ってしまったから。でも私は呪う以外にどうすればいいかわからないから呪うしかなくて、どうすることもできない感情と思考の上をぐるぐると延々とループするだけだった。

 

 

 

 

これらは白服さんの言う「しがらみ」「後ろめたさ」に集約されるのだと思う。白服さんがそう言葉にしたときストンと心の中に落ちてきた。そうか、そうだったのか。

 直視してはいけないような気がして言葉にしないように見ないふりを続けてできるだけ穏便に済ませようとしてきた。だけど本当は、私はずっと、しがらみや後ろめたさを抱えていて、見え隠れする理不尽に怒りたかった。

 

 

 白服さんの言葉を聞いて、安心した。嬉しかった。守って救ってくれる人がいた。

 自分が抱えていたすべてを肯定してもらえたような気がした。

 

 

 

 

めせもあの好きなところはたくさんあるけれど、個人の、そしてグループとしての未来や感情の話をするときに、嘘偽りがないところが好きだ。まっすぐで心に響くパフォーマンスが好きだ。

幕張公演は本当にセトリ、構成、演出といったすべてが最高で彼らは紛れもなくスーパーアイドルだった。コロナ禍においてこんなライブをしてくれただけでも私にとっては救いだった。それなのに、それだけじゃなくて、あの挨拶。

私の未来はまだちゃんと見えない。次に現場に行けるのはいつだろうか、もう行けないかもしれないと不安になることもある。ここから先も理不尽に苦しむかもしれないと思うと、怖い。

だけど私は信じることにした。大丈夫、また絶対に会える。私の未来にはめせもあが一緒にいてくれると。

選択も決断も未来も大切にしてくれてありがとう。アイドルでいてくれて本当にありがとう。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

***

どちらかと言えばゲームに疎い私は、公演タイトルを目にしてまずは検索アプリをタップした。強くてニューゲームってなんだ?

RPGなどにおいてゲームクリアした状態のセーブデータを引き継ぎ、また最初からゲームを始めること。なるほど。強かだなあと思った。

ちょっと気になったのでエンドの種類についても後から調べてみた。ハッピーエンド、バッドエンド、メリーバッドエンドまでは知っていたのだが、グッドエンドとは物語の目的達成を、トゥルーエンドは製作者が意図したあるべき終わりを指しているそうだ。

 

 

 

 

彼らのゲームはまだまだ続く。強くてニューゲームを選び、Continueしたから。

ゲームマスターは意地悪な神様かもしれないし、その終わりが愛のハッピーエンドかはわからない。それでも私は彼らのたどり着く先が最高のトゥルーエンドであってほしいと思う。

 繰り返したニューゲームも、強制ログアウトも、コンテニューも、全てはトゥルーエンドにたどり着くためだと信じたい。

 

 

 

そら

 

寄せる波にも消されぬ足跡

 

 

 

こんにちは。

事あるごとに振り返りブログを書きたくなっちゃいます、そらです。

ブログっていいなあとつくづく思います。何がいいかって、書きたいと思ったときに書けるし、好きなことが書けるし……大学生だからしょうがないのですが課題で何かを書くときってテーマや分量が決められていて、なにより書くことを強制されているんですよね。書くことは大好きだし自分の長所となりえるものだと思っているけど強制されると何か違うなあと感じてしまいます。

何の制約もなく自由に使える時間が与えられたときって、自分が本当に好きなことに気づける時間だと思います。強制されていないときにやりたくなることって、利益とかそういうのなしに好きなことなんですよね。私にとってはそれが”書くこと”なんだと今年気づきました(読むことも同じくらい好きです。オタクのみなさんのブログが上がっているとウキウキしながら開いてしまいます)。予期せぬ自由な時間が与えられた私はあれ書きたい、これも書いてみたい、そんなことばかり考えていました。実際に形になって完成したものは僅かですが、もはや考えるだけでも楽しいんです。

 

”今年1年を振り返る”というワードをよく目にする季節になりました。

みなさんにとってこの1年はどんな年でしたか?

この1年間の思い出全てがコロナによる悪影響で塗りつぶされてしまうのはもったいない、私はそう思っています。確かにコロナ(と大学)に振り回され続けた1年間ではあるのですが、それだけじゃない。この状況だからこそ気づけたことがあるし出会えた方もいます。決して1年を美化したいわけじゃないんです。ただただ感じたものそのままを来年に持っていきたい。

 

というわけで、今年を振り返って思ったことを記します。

 

 

 


オタク用のアカウントを作ってから一年以上経つ。私は大学生なので、フォロワーさんは自分と同じ学生か、あるいは社会人の方々が多い。大学では同年代の同じ学生にしか出会わないので社会人の方と出会うのは自分にとって新鮮なことである。実は。

TLを追うのも私にとっては楽しみの一つだ。仕事に追われて疲労困憊の様子、ライブや特典会のために休みを取ろうか悩んだり、仕事中のちょっと嬉しい出来事を記したひとつの呟き。仕事終わりにバタバタしながらもそのまま遠征するワクワク乗せた文字が躍る日々が懐かしく、少しずつ戻ってほしいと思っている。

みなさんのツイートを目にして、仕事をする未来の自分はどんな毎日を送っているのかなと考えるようになった。少しずつイメージできるようになった。きっと毎日心も体もへとへとだけど、推しの放送や呟きに掬い上げられて日々を過ごしていくのだろう。私にも、仕事終わりに電車に飛び乗って遠征する未来がやってくるかな。

 

 

 

 

 

今年は誰もが”自分のオタクとしてのあり方”を問われた一年だった。当たり前だと信じていたものがあっという間に崩れ去って、学校に行く、仕事に行く、ということさえ形を変えた。この状況下において一体何が確かで信じられるのかわからなくなってしまう瞬間に度々直面した。

自分にとって当たり前だった生活が停滞したときに思ったことがある。

「お金がない、時間がない、足を運べない。そういう状況になったとしても、それを理由に好きをやめることはしたくない」

見られるコンテンツは絞られてしまうかもしれないけど、彼らを好きだという気持ちひとつがあるのなら好きでい続けたいと思った。誰に促されるでもなく、自然に湧いてきた気持ちだった。好きでいる理由は「好きだから」でいいのだ。

 

 

 

 

 

* 

信じている、というよりは信じていたいから信じる、という方が的確かもしれない。

身近な大人に「困ったことがあったらなんでも相談してね」と言われると最大限警戒してしまう。なぜなら本当に困っていることを話したとて相手にはわかってもらえない確率がそれなりにあるからだ。わかってもらえないし何も生み出さないのならば最初から言葉にしなければいい、期待しなければいい、信じなければいい。

そんな私がどうにかこうにか言葉をかき集めて伝えようとするのは、相手を信じているときだ。きっと伝わると、ちゃんと受け取ってもらえると思っているから。信じているというよりそう信じたいのだ。

信じるために、信じていたいから言葉を重ねる。相手に伝えると同時に自分を支えるために。

 

 

 

 

 

ツイート下書きのなかに「オタクしながら大切なものをひろいあつめてる」という一文を見つけた。オタクをしていると、日常の中で取りこぼした数々を掬い上げてもらっているなと実感することが多々ある。推しに限らず、オタクのみなさまにも掬い上げてもらっているのだ。自分が日々を消費していく中でないがしろにしたり見逃したりしたものに目を止めて、そうかこういう見方もできるのかと気づかされる。自分ひとりでは見つけられなかった輝きを見つけることができたり、日々のなかに転がるなんでもない何かが少しだけ特別になる。

それともうひとつ。推しのメンバーカラーや推しの好きなものに影響されて、自分の世界では見つからない新しいものに出会うことがあるなあと日々実感している。”推し”が好きだと言っていた、話題にしていた、それだけで特別な意味を持つようになって、じゃあ少し触れてみようかなと手を伸ばすようになった。”好き”のさらに外側まで世界が広がっていく。

 

 

 

 

 

つい先日の特典会。言葉を交わせるのは年内最後だし1分間に収まることを、と思って年の瀬の挨拶をすることにした。今年もありがとうございました、ありがとう、と交わした後、推しがこんなことを言い始めた。

「今年は特になんにもできなかったけど」

この状況下でもできることを考え、工夫を凝らして、常に私たちを楽しませてくれた。ソロライブやペアライブで何度度肝を抜かれたことだろう。そしてこの人は、できなかったことではなくできたことに目を向ける人なのだ。

そう思っていた私にとってこの言葉は予想外だった。「特になんにもできなかった」という印象はまるでなかったから。

それと同時に、3月頭の放送で涙を流していた姿を思い出した。推し本人にとっては「特になんにもできなかった」と映るのかもしれない。

「毎日楽しくて、しんどくても挫けずにやってこれました」

考える前にそのまま零れた、そんな私の返答に推しは「よかった…!」と安心したように笑った。

 

 

 

 

 


最後に。 

たまに「言葉選びが好き」「考え方が好き」と言ってもらえることがあります。特にこのブログは自分が書きたくて書いているのですが、それでもこういったメッセージをいただくのはとても嬉しいです。本当に本当に嬉しくて、いただいたメッセージを何度も読み返しています。ブログを読んでくださるみなさま、メッセージをくださるみなさま、いつも本当にありがとうございます。これからも気が向いたときに読んでいただけたら嬉しいです。

 

 

2021年もたくさんの出会いがありますように。

それではみなさま、よいお年を。

 

 

そら

万華鏡を覗き込む

 

⚪︎ミュージカル『Phantom Quest』の11/8ソワレと11/13ソワレを配信で観た感想を書き連ねたブログです。ネタバレしかないのでご了承ください。

 

⚪︎思ったことをそのまま書き起こしているので綺麗な文章ではないです。言及している人物に偏りがあります。(ボニートが可愛すぎるのが全ての原因です)

 

⚪︎浅井先生のネタバレツイートや終演後のキャストのブログを読む前に書いたものなのでそれらの情報といくつか食い違いがあると思います。思ったことをそのまま残しておきたかったのでその点もご了承ください。

 

⚪︎お時間があるときに読んでください、超長いです……(約8000字)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

【11/8 ソワレ(A・二番煎じ)】

 

・とみたんは歌やお芝居になると普段のひらがな調が消えることがあって、すごいな〜不思議だな〜と思う。どんな魔法?

 

 

・野崎さんって眼光が鋭い人でもあるので睨む姿もかなり様になると思うんだけど、ここで微笑みをとったのがすごい。

見守る微笑み、たしなめる微笑み、お茶目な面を覗かせる微笑み……微笑みにもいろんな種類があって、なにより観客にそれを感じさせてしまうのがまたすごいなと思う。

そして声音も。基本的に低く柔らかく発せられる声がどんな感情を乗せているのか。微笑んで柔らかく語りつつ時には柔らかいまま威圧感を滲ませる。個人的には野崎さんは声を作っている感じがあって、でも違和感のない作り方だからそれが好き。微笑みつつ語りかけるのが常だからこそ「彼は誰だ…?」と発する場面が一際引っかかるのだと思う。

歌をすごく頑張っていると聞いていたけれど、本当にすごかった。各場面でキーになる歌声。導くように見守るように、けれども決して隠れない歌声。

ところでクラヴィス・ロンガとは「長い鍵」という意味を持つそうだけれど、この人の導きがあってこそ5年に渡る物語が歪むことなく進み、そしてこの先へと繋がっていくのだと思う。もちろん彼自身も未来のことは何一つわからない。いわば確証のない未来だが、それでも人を信じる力がある(と思ったんだけど石を貸すシーンでは信じているのではなくむしろ疑いが強い……?)ところがクラヴィスの最大の魅力ではないか。財宝をフィーネに貸したことも、バルト一座をクエストに参加させたことも、ゼノを半ば焚きつけたことも、5年前から今に戻るときにフィーネの選択に納得のいかないディアナを止めたことも。彼の行動がなければハッピーエンドには辿り着けなかっただろうし、その言動や行動が"鍵"であり、1度ではなく長い期間に渡ってだから”長い”なのかな、と私は思っている。(長く王家として続いていることを暗示する”ロンガ”なのかな、とも思ったり)

 

行き先は古本屋じゃなくて劇場だったけどほぼ当たってるじゃん!!!!びっくりした……おちゃめだね王子…

 

 

・「あの日俺が選んだあの選択 後悔してるか? もしそう聞かれたら…」という歌詞があるけれど、それに続く答えは冒頭のシーンと2度目のファントムクエストのなかとは違っていたのだろうか?私は、「後悔している」という答えではないと思うが、あそこまで強さを滲ませた発言は出てこなかった気がする。

 というか、この歌をこの歌詞をにーちゃんが歌うのか…!と思った。浅井先生さすがすぎる………私は兄の接触に参加するようになってちょうど1年位のオタクだけど、にーちゃん本人のことを考えるとこの歌詞の深さよ…ってなる。こんなに中の人のことに思いを巡らせるミュージカルってない気がする。

 

 

・「ちゃらたんばかたんぼく!」「えっっっ!??」「ノーーーチラス!!」「みんなのおっきい弟ジーニです!!…おっきくない!!」

 ここアドリブなのかなあ、アウラの驚き方が割とマジだった気がするけどどうなんだろうか。13日の公演を見るのが楽しみ。

 

 

・役者さんをやっていたとのことで、とみーさんのお芝居を観れるのをとっても楽しみにしてた。いやーーーーもう芸が細かくて好きなのでヨークス推しカメラが欲しい。

シレオの紹介シーンで蹴飛ばされるヨークスですが、シレオさんのターンが終わってそっと座った後、嬉しそうに頬に手を当てて、自分の身をギュッと抱きしめたのがあまりにもかわいい。表情が完全に恋する乙女だった。自分のターンでシレオに近寄っていくけど、その後も座ってから頬に手を当ててた。どこまでかわいいんだろう。

これを踏まえるとバディ組んでもらえてよかったね……の気持ちがより一層強くなって、ヨークスにさらに感情移入できた。こういう反応は公演によって変えてきそうだと思ってるから、13日はどうなのか楽しみ。 

 

 

・シレオの紹介シーンの「無口で実力主義で野心家〜」のところで『LILIUM』の「ひとりぼっちのスノウ」を思い出しました。「ひとりぼっちのスノウ」はサビの寂しくて悲しい盛り上がりが大好きで、「高潔で冷徹で無愛想でとても孤独で」という歌詞もなんとなく同じ雰囲気だな〜と。たまたまだけど。

 

 

・ゼノがかっこいいというお話を聞いていたのでゼノに堕ちるかな~と思っていたけど、それよりもゼノが抱える過去のお話が辛すぎて(感情移入してしまって)それどころではなかった。最終的にはファントムクエストはハッピーエンドになるけれども、それでも辛いなあと思ってしまった。(これは私自身が過去に囚われ続ける人だからだと推測してる)

でもやっぱりゼノはかっこいいんだよなあ…。第一声からにーちゃんじゃなくてゼノだったし、シレオに「邪魔すんなよ」って言われた後の「へぇ…」の威圧感に怯えてしまった。怖い。あの声で怒られたら間違いなく竦みあがってしまう。

ゼノの首元に鍵モチーフがついているのはクラヴィス様及び国家に従うものであることと、5年前のファントムクエストの真相の鍵を握る人物であることの二重の意味があると私は踏んでいる。他にも意味はありそう。

 

twitcasting.tv

「怯えた顔すんなよ」「付き添いの先生みたいなもん」あたりを聞いてこのツイキャス思い出した。自身の教員時代について「怒らない」「近所のにーちゃんぐらいに思ってくれていいよ、って言ってたなあ」「ただのリーダーに過ぎない」と語るこの話が想起される場面で、もしかして先生このツイキャス聞きました…?なんて。

 

 

・ボイスドラマで聞いた二番くんのお芝居が好きで、二番くんのお芝居が見たくてこの回を買ったわけだけど。はっきりと喋るし見ている側からも煎じジャスパが抱いている感情が明快で、わかっていたけどなにより声がいい。声の良さに合わせたはっきりとした喋り方をしているなという印象。これって自分の声を操れているってことだよなあと思った。そして換気タイムのおしゃべりがもうほんとに上手くて、ただただ圧倒だった。すごい。わかりやすい。

ルプスにトレハンのことを色々と教えてもらうシーンではシレオの両手を指ハに変えてた。お茶目。このときシレオの腕の位置を調整するためにシレオを後ろから抱え込んでたのもよかった…。

何をされても動じないシレオに対してフィーネ&ディアナは主張が強すぎてこのシーン笑いがとまらなかった。ジャスパが近寄る以前にこのふたりめちゃくちゃ笑ってるのが配信でもわかったぐらいニヤニヤしながら静止してたよね。ディアナはあまりにもジャスパに対するアピールが強くて、ジャスパがディアナについて触れる前に勝手に動いて指ハ飛ばすしウィンクするしでジャスパがかわいそうなほどだった(すごくよかった)。しまいにはジャスパに冷たくあしらわれてたけどあしらわれた瞬間のディアナの表情がまさにメンヘラで……他の公演では煎じジャスパにあしらわれず想いは届いたのかな。がんばってねディアナ。

 

 

・ふたりのフィーネについて考えれば考えるほどわからなくなっていく。これは図にしないとわからない(図にしてもわからないかも)。これについてはクラヴィスはどこかで気づいてたと思うんだけど、いったいどこで気づいたんだろう。クラヴィスの聡明な部分は中の人と重なる部分があるなあと思ったり。

 

 

・冒頭の方でフィーネ・ディアナ・ゼノ・クラヴィスが順々に立ち去るシーンで3人は走り去るのにクラヴィスは悠々と歩いて去っていくのが王子様でよかった。

 

 

・…まさかボニート・ルーカスとリアンにここまで惹かれるなんて思ってもいなかった。ボニートの独特な喋り方、あのうわずった感じ?で全く嫌味に聞こえずむしろ愛らしく聞こえるのはこぬにしかできない。二番くんと同様、こぬも声が武器だなあと実感した。「ボニート・ルーカスだ!!!よろしくぅ!!」何度も聞きたくなるし真似したくなるしかわいい。愛おしい。

ニートとリアンは年齢不詳感があるなあと思っていて、20代半ばかなあと私は予想しているけど(ふたりは5年前の話をしている数少ない人物なので若くても20は過ぎてそう)、あのくらいの年齢で「リアン!今回のクエストも楽しみだな!」「はい、坊ちゃま」って言える関係性が素敵だと思う。ボニートはきっととびきり愛されて育ってきて、それと同時にリアンに認められたいとも思っていて。無邪気で純粋で愛らしくてまったく憎めない。仮病に「お腹を壊した」を使う理由を話す場面では妙に納得してしまったけど、これはボニートだからこその説得力だと感じている。「臆病という心の病だった」というセリフの最後の”た”の余韻も好き。

このふたりで一番好きなシーンは、紹介シーンで名乗った後に、リアンがボニートのジャボを直すシーン。ボニートは最初はなんだ?という顔をして、リアンがジャボを整えてくれることに気づいて満足気な表情に変わってうなづく。なんだ?という表情に見える無邪気さと、流れるようなリアンの手つきからわかる”日常”感とからふたりの関係性がよくわかるので大好き。御曹司と従者という関係でありながらも明るい関係性だなあと思う。ぜひボニートとリアンに関するスピンオフを上演してください(もっと欲を言えばゆやさんのリアンも見てみたい)。そして私は来世ではルーカス家のメイドになりたい。

ところで、ボニートのジャケットといい帽子といいやたら海賊っぽさを感じるけどあれはどういう意図が隠されているのだろう。そもそもルーカス家が代々トレハンなのか、それともボニート坊ちゃんがトレハンになりたいのか(クラヴィス王子と同じく家を抜け出すタイプだったら面白い)。海賊から名家に成り上りました!だったりして。

 

坊ちゃんって呼んでるの聞いて思わず「やったー!」って叫んでしまった。あと青野さんってリアンとして生まれてきました?というぐらいお芝居が自然で好き。

 

 

・ビジュアルが公開された時点でフィーネとゼノが同じ懐中時計を持っていること、胸元に時計モチーフがあること、フィーネが探偵のような恰好をしていてゼノの警察と立場が似ているのでは?などなど気になることがたくさんあって、このふたりには何か深い関係性があるんじゃないかと思っていたけどそうきたか……って。5年前、という作品のキーワードとこのふたりに焦点を当てるのはずるいですよ…。5年前の演者自身と、劇中の彼らはなんとなく立場が逆転しているような気もして、そこに「後悔してるか?」と問うてくるのもうわあ…ってなりました。そしてこの歌の歌詞がにーちゃんの「この選択を正解にしたい」という言葉からきている気がしてならない。

 

 

・アフタートークについて(野崎さん、二番くん、なぎちゃん、とみーさん)

なぎちゃんととみーさんは先輩にもフランクで好き。このふたりは本当に仲良しでアフタートーク中は同じ仕草をしたりキャッキャしてたりしてかわいかった。ふたりとも先輩の話に突っ込んだり、自由にボケたりしてあ~めっちゃこの4人好き~ってなった。

なぎちゃんはこの回は従者役だったんだけどアフトでも従者だった。自己紹介して席に着くときにクラヴィス王子にこちらですって案内してた(この間のとみーさんは「どの椅子に座ろっかな~」と言い出して二番くんに「そういうのじゃないから」と突っ込まれてた)。クラヴィス王子は椅子に座ろうとしてズッコケるというおふざけをして「こういうの(劇中で)できないからさ~やりたかった」と弁明してた。王子を起こそうとするなぎ従者がちゃんと従者……。なぎちゃんと反対側に立っていた二番くんに「早く座れ!!」と引き摺り起こされてたのが最高だった。

好きな劇中歌、着てみたい衣装、中の人がバディにしたいと思うキャラは?などなどサクサクとトークが進んだようでいろんなお話が聞けた。とみーさんが「ノックソさんのときとは大違いだ…」って言ってたんだけどのっくん回では何があったんだろう。たしか二番くんがリアンに、野崎さんがボニートになりたい(衣装を着たいだったかも?)って言ってたのでじごゆでルーカス家が完成するじゃん……とときめいてしまった。ぜひ見たい。

 

 

 

 

 

 

 

 

【11/13 ソワレ(B・フォーゲル)】

 

・以前どこかで拝見した「とみたんは音に感情が乗っている」という言葉を思い出す。嬉しい、悲しい、感情がよりストレートに伝わってくる。これはこういう感情を表しているのかなという思考をする必要もなく感情が心に飛び込んでくる感じ。たゆまぬ努力によってそれが為されているんだろうということは承知の上で、それでも、魔法だなあと思う。

 

 

・8日の公演を観たときから野崎さんの表情が好きだなあと思っていた。なんて形容するのだろうと考えていたのだが、いつでも”満ちた”表情をしている、というのが自分の中で一番当てはまる表現だと気づいた。それがどんな感情にしてもいつでも満ちているな、と。一番好きな表情はPQ Evolution上演後にディアナと再会したフィーネがまくしたて始めた瞬間の「やれやれ…」という表情。呆れと喜びが混ざった表情をしていたように見えた。

 

 

・ところで白服さんが演じる彼の本当の名前はなんだろう?ディアナが彼をフィーネと呼んでいたのは彼が持っていたチラシにフィーネと書いてあった上、「おにーさんがフィーネ?」という問いに対して彼が頷いたから。かつてノーチラスと呼ばれていたのは「潜水艦の名前から取ってノーチラスと呼ばれるようになった」のが始まりであるとゼノが語っていた。”ノーチラスと呼ばれるようになった”ということは別の名を元々持っているはずだが…?(もしくは出生時から名前がなかったのか)

そしてふたりのフィーネについて考えながら観ていたがやっぱりわからない。どこかでループしないと完成しない気がするけどどうだろう。

 

 

ドルイドを演じている、というよりはドルイドがそこにいるなあという感覚を得た。「3時間ほど!!」の3が強調されるようになったのがそのうちのひとつ。あとは(これはもともとですが)帽子も相まってディアナより身長があるのに必死にディアナの後ろに隠れようとするのがかわいい。

 

 

・バルト一座のシーンはアドリブでしたね………困りに困ってコウメ太夫しだすアウラ(というかぱっちくん)に思わず同情してしまった。でもしっかり爆笑してしまいましたすみません。フィーネと4人になったシーンでアドリブの話が出たとき、とみたんがチャンチャカチャンチャン…と口をパクパクしながら手をひらひらさせてた。からかってるね。

 

 

・ジャスパがどうやら別人らしいという話はなんとなーーーく聞いていたもの、私はジャスパ・セージのイメージのまま見ていたのでジャスパ・ゲールがしゃべりだした瞬間「えっ待って!?別人!?」と思わず停止ボタン押した。一人称まで違うし、セリフの言い回しもなんとなく違う。ジャスパ・セージは明快だなと思ったけど、ジャスパ・ゲールはちょっと控えめに見える。でも芯があるのはふたりとも同じ。こんなに違うのか!と新鮮でした。換気タイムもゲールはジャスパがベースでたまに中の人が見え隠れする感じだったのも面白いなあと。セージは完全に中の人だった。自由度が高い。

ところで終盤でジャスパが記者としての信念について話すシーンがあるけれど、あの言葉は毎回頷きながら聞いてました。

 

 

・王国の財宝が持つ力についてトレハンたちにわかりやすく説明するヨークス。「勉強は得意じゃないけど…」と口にするけれど、あそこまでわかりやすくかみ砕いて話せるっていうのはきちんと勉強した証なんだろうな、と。そしてその動機が「シレオの役に立ちたい」だなんて。少し照れ臭そうに恥ずかしそうに語ったヨークスがより愛おしくなった。

 

 

・フィーネがディアナに残した伝言は、もしかしたらそれを託したゼノに対してでもあるんじゃないかなと思った。振り返ったけれど今度は彼の手を引かずに戻ったのは、きっとそういうこと。

 

 

・見れば見るほどボニートとリアンが愛おしくてしょうがない。この公演ではジャボだけでなく襟も整えてたリアンさすがすぎ……。ヨークスがエトオリ地区から~と言っているときにボニートがリアンに何か耳打ちして、それにリアンが返しているのも見えた。「エトオリってどこ?」とか訊いていたのかな。

トレハンたちが5年前の真実を王子から聞いた直後のシーン、ほとんどのトレハンは王子のほうを見ているのだけど、ボニートは隣に立っているディアナを見上げて心配そうにしていました。優しいんだね。「ボニート・ルーカスだ!!」と自信満々に名乗るのも、「嘘はばれる!」と正直で潔いのも、すべてが愛おしいなあと思う。ルーカス家は安泰だなあ。

 それにしても時間稼ぎした後のボニートにリアンが膝蹴り入れてましたよね???クビになっちゃうよ……心配ご無用なんだろうけど…

 

 

・こうたくんのお芝居が終盤に向かうにつれて説得力を増していくのがとてもよかった。ジャスパが別人であるように、マルコもポーロもそれぞれ別人だと私は思っています。

 

 

・1回目はとにかくしんどいと思いながら観ていたゼノだけど、2回目はそう思わなかった。なぜなのかは自分でもわからないけど、私はようやく彼の運命を受け入れることができたのかな。

 

 

・白服さんの演じ分けにただただ脱帽。一瞬で切り替えられるのがすごい………。傷のある彼はすべてを見据えた目をして一言一言噛みしめるように話す。傷のない彼は幼稚さが見え隠れして思ったことがそのまま言葉になっているような。どちらも白服さんが演じるからこそ愛おしいのだと思う。

 

 

・そういえばバルト一座が公演後にはけていくところで「後ろもありがとう~」と言っていたけれど、あれってアイドルじゃないと(というか俳優は)言わないセリフだ。

バルト一座終演後にディアナが挨拶をしてまわるシーン。8日は子どもに向かって「ありがとう~またきてね~」と言っているのに対し、13日は「またきてくれたの?ありがとう~」と。

 

 

・5年後を知ったうえで寸分狂わずにそこまで戻ってくるってどうしようもなく大変だろう。

にーちゃんが数か月前のツイキャスで「過去に戻れるならいつに戻りたいですか?」という質問に対して「そもそも戻りたくない派なんですよ。同じルートを辿って今に戻ってこれる自信がないから」って答えてました。これを思い出しました。

ssl.twitcasting.tv

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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私は兄推しであり茶推しなので普段のふたりのブログや放送からキャラと本人はこういうところが共通点かな〜と色々考えながら観ていました。もし他のキャストさんのブログや放送に多く触れていたら、もっと色々な共通点が見えたりしたのかな〜と思います。オタク皆推しが違いますから、これこそあのセリフはあの人のあのときの発言から生まれたのかな、とか色々語り合いたくなりました。人によってキャラに対する見え方がちょっとずつ違うなんて超面白いですね。まるで万華鏡みたい。

もし「あーここ!私もそう思った!」という箇所があったらこっそり教えてください。語りましょう…!

今回私は自分の置かれている状況を鑑みて配信を選んだわけですが(配信してくださり本当にありがとうございました!)、早く現地に足を運んで生で観て、感じたことをみなさんと語り合えるようになってほしいですね。なってほしい、と書くと他人事で無責任な響きになってしまいますが、自分ができる最大限の配慮を続けつつそんな日が戻ることを願うばかりです。

この旅路の先に、光が降り注ぎ続きますように。

 

 

 

そら

 

 

ひとかけらの言葉にも愛を込めたい

 

 

今でもずっと不思議に思っている。

 

 

 

 

 

 

「俺ね~知ってるよ~」挨拶が終わって突然投げ込まれた言葉に、なにを?と思った。その後に続いたのは「そらちゃんでしょ、知ってるよ」。待って、どこで?なんで?思い当たる節はいくつかあるけれど、推しが指すものがどれなのかわからない。

何を「知ってるんですか?」と問いかけてみた私に対して依然として「うん、知ってるよ~」と答える。思い出しながら喋っているような、勿体ぶっているような、どちらかなんだろうけどどちらなのかはわからない口調で繰り返している。

脈絡がひとつもないのにどうして突然こんなことを話し始めたのかはわからない。……知っていることが嬉しくて報告してくれたのかもしれないけど、それだと私にとってあまりにも都合が良すぎる(そして可愛すぎる)のでやめておこう。

 

 

 

アイドルを推す人のなかで認知というのはそれなりに大きなトピックであるように思う。認知されたい、認知されたくない、どうすれば認知されやすいか、認知されたことへの喜び、エトセトラ。

私はというと、推し始めたころの感情としては認知されたくないというのが一番近かっただろう。これは認知に嫌悪感を抱いているわけではなく、私の存在が推しの脳みそのわずかな一部分でも占有してしまうのが怖かったから。申し訳なさや罪悪感があって、私のことは別に記憶にとどめてくれなくていいと本気で考えていた。

今の私は認知されたくないとまでは思わないものの認知されたいという積極的な思いは抱いていなかったりする。認知されるのだとしたら素直に嬉しい。けれど、されるために何か積極的に動くことはしていない。それなのになぜリプや手紙を送るのかと言えば「あなたの言葉やパフォーマンスに対してこんな言葉を綴りたい人間もいるよ」と表明したいだけなのだ。それが”私”だとわからなくていい。そういう誰かがいるのだと、それがどこかで僅かでもあなたの救いになってくれたらいいと、ただそれだけ。

私が手紙に名前を表記したり、手紙やトークコール申し込みで名前だけじゃなくてアカウントを表記することと矛盾が生じてしまうかもしれないが、これには私なりの言い分がある。メッセージを受け取るのは嬉しいだろうけど、もしそれに差出人が書かれていなかったら少しばかり恐怖が生まれてしまわないかと思うのだ。内容とは別のところでそれを生みたくなくて、記号のつもりで名前やアカウントを記載している。これを悪あがきと呼ぶのかなんというのかはわからないけれど。

 

 

 

「いつもリプくれるよね」「いつもありがとう」

私にとってはいつもじゃないけれど、この人にとっては”いつも”に相当するらしい。生配信にリアタイできないときも多いし、ツイートを見ていてもリプしないこともよくあるし、いつもそのアクションに応答できているわけではない。これは事実だ。だけども”いつも”と表現して、ありがとうと言葉を重ねてくれるのだ。

 

 

 

リプや手紙を読んでくれていることに疑いをかけたことは一度もない。だけどそれが自分に対しても適用されていることに実感がなくて(実感がほしいと思ったわけではない)今日推しからもらった言葉によって「読んでくれているんだ、伝わっているんだ」と実感した。嬉しかった。

 

 

 

みんなを相手に発信していくひとが、ひとりに向けて「あなたに伝わったのが嬉しい」「あなたに向けて伝えられたらいいのだけど、それができなくて申し訳ない」と言ってくれることにもったいなさを覚えてしまう。推しが応援してくれる一人ひとりを特別に思って接していることはよくわかっていて(とはいえこれはとても有難いことだ)、それでもその思いや言葉が自分にも向くことがこそばゆいというか、もったいないというかなんというか。いつもいつも不思議だなあと思うのである。

 

 

 

 ”みんな”を増やしていくところにあるひとが、とあるひとりのことを知ろうとすることに不思議な気持ちを覚える。「何歳になったの?」「誕生日はいつ?」当たり前といった口ぶりで問いかけてくることに毎回驚いてしまう。驚いてしまうけどそれと同時に「人と人とのやり取りなんだな」と思って、ひとつの人間関係が少しずつ構築されていくことが、なんだか嬉しい。

 

 

 

いつか全てを忘れてしまうかもしれない。言葉のひとつひとつを、誰と共有した時間なのかを、それらが記憶から抜け落ちてしまうときが来るかもしれない。それでも、言葉の端に感じたきらめきや暖かさを忘れたくないと思った。会話の中で抱いた感情にどんな名前がつくかはわからないけど、この心のどこかにいつまでも残っていてほしいと思う。

 

 

 

 

 

 

 

 

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