夜空は嘘をつかない

難しいことは後回し

The Journey,The Discovery

 

みんな〜〜!年末総決算おブログの時期がやってきたぞ〜〜〜!!(※毎年私が勝手に言ってます)

 

のっけから騒いでしまいましたがあっという間に年の瀬を迎えてしまいました。まずはみなさん、1年間お疲れ様でした。特に今年はあまりにも濃密で心身ともに忙しない日々が続いた方が多かったのではないでしょうか。私もインドア派のはずが永遠に週末に予定が入っており、狂いそうになりながら忙しなく愛おしい日々を過ごしました。

 

横浜アリーナ公演から3週間、久しぶりに現場のない日々を過ごしていい意味で心が少しオタクとしての自分から離れる時間になりました。客観視とまではいかないけれど過ぎ去った日々として今年のあれこれを振り返って思うのは、とても必死だったけれど騒がしくて楽しくて、幸せで、たくさんのことに気づかせてもらえた1年だったと。

1年間という長いようで短い時間の中でさえ推しとの関係性が急速に変わっていって、自分の周りにいてくれる人たちがさらに増えて仲も深まって、本当に恵まれているなと思います。自分の暮らしを守りながら、でも行かなかった後悔はなるべくしないようにと心に決めて、たくさん旅をしました。11月なんて何故か3回も西に向かっていたし新幹線の車内で翌週の新幹線を予約していたし……基本的にインドア派ですが旅が好きだと気づいたのも今年でした。生活圏が割と都会なのもあり、遠征した先々で開けた空を見上げながらお散歩するのが大好きでした。旅をするためにそれ以外の休日はなるべくインドアに過ごして心身の充電をする、というのが自分には合っているのかなと気づいて。来年はどのくらい旅をするのかわかりませんが、心の赴くままに足を運びたいと思います。遠征先で友達とご飯を食べるのが大好きなので、タイミングが合えば時間を共にしてくださいね。

 

自分の人生って面白いなと思えたのも今年でした。

正確に言えば、人生は面白い方に進めたいなと考えるようになりました。そもそも自分の人生が面白くなるなんてそれまであまり思ったことがなかったし、長生きの願望もないけれど。どこかに足を運ぶとき、そのきっかけに"こうする人生って面白いよねきっと!"という自分への信頼が入るようになりました。広島行った翌日に福岡へ向かう旅程はきっと面白いし、そんな行動をする機会なんて人生の中で2度とないとも考えられるし。奈良に行って帰って5日後にまた関西へ向かっていたのは冷静に振り返れば行動力も思考もおかしい。もちろんこの面白さの中にはその先々で推しに会えて、友達に会えるからというのが大きく含まれているので、自分に関わってくれるみんなに感謝の気持ちでいっぱいです。生活圏のまるで異なる友達と来週◯◯で会おうね、と約束し続けるってそうある体験ではないけれど、その約束がとても楽しかったです。これからも自分の人生を面白い方へ進めたいです。日々変わりゆくけれど、そうできる自分で居続けたいですね。

 

毎年このブログで書いてる願望コーナー、有難いことに今年はほとんど達成しました。逃したのはグルショとファンミだけでした。これはまた来年の願い事にします。

推しチェキをついに当てました。そのときに書いてもらったメッセージの中に"素直"という言葉があって、自分では自分のことを捻くれていると思っていたので心底驚きました。驚きが抜けないまま翌日推しにその話をしたら、「俺は捻くれてるなんて思ったことないよ」との返答までもらってしまいました。推しチェキを友達に見せるときに大抵この話をするのですが、ある友達に「今までもずっと素直だったけどそれに気づいてなかっただけじゃない?」と言われたことが強く印象に残っています。いろんなしがらみや呪いに苛まれて、自分がよく見えなくなっていた過去の私が悪いわけでは決してなく、このタイミングで気づかせてもらえたのも運命だったのかなと思います。本当は自分がずっと持っていたものや自分の人間の軸となる部分を、いつだって見出して気づかせてもらった1年間でした。大切な人たちとそんな関係性を築かせてもらえたこと、この先もずっと宝物です。

 

 

ということで!今年も1年間大変お世話になりました!

自分が好きだから書く、書きたいときに書くというスタンスはこれまでと変わらずでしたが、たくさんの方に自分の言葉選びを褒めてもらう機会がありました。有難いことに推しにも自分の言葉選びをたくさん褒めてもらえました。どんなに苦しいときでも自分が大切に持ってきたこの宝物をこれからも磨き続けたいと思います。

ブログを読んでくれるあなたも、インターネットで見守ってくれるあなたも、会って言葉を交わしてくれるあなたも、みんなみんなどうぞこれからもよろしくお願いします。ここで道が分かれてしまう人も、またどこかで会ったらよろしくね。自分と関わってくれるみんながこれまで通り、これまで以上に、幸せな日々を歩めることを祈っています。私はいつでもインターネットと現場にいるので!

感謝と尊敬をここに。それではみなさま、良いお年を!

2023.12.31

 

さよなら おやすみ またあした

 

 

11月の終わり、定期配信で推しが「みんなにさよならを言おうと思って」と発言したことに私は静かに衝撃を受けていた。

もしゲスト出演することがあったら〜とかにーちゃんでいることには変わりないから〜とか口にしていたから、この人は「またね」を選ぶと至極勝手に思っていたのだ。

さよならを言わなければならない。大好きで、愛している、世界で1番優しいこの人に。その現実を改めて突きつけられた。もとより最後の挨拶はするつもりだし内容も考えていたけど、さよならを選ばなくてはならないのだ。

このタイミングで、推しとはじめましてをしてから4年を迎えた。初めて話したその後ひとりで10分も泣き続けた私が、あのときなぜ泣いたのか、あの感情の名前はわからなかった。多くの言葉を交わし、卒業を間近にして今直面しているこの感情の名前は「愛してる」なのだ。あのときがどうだったのか未だにわからないけれど、ようやく感情に名前がついた。

それと同時に交わす言葉、向けてくれる眼差しと表情、その一つひとつから「愛しい」という感情を受け取ってしまい、先日意を決して伝えてきた。「愛してくれてありがとう」という言葉に対して返してくれたのは「届いててよかった」だった。私はちゃんと、あなたの愛を受け取れていたんだね。

泣くことと後悔することについて自分なりに整理がついた今、自分の涙の大半は後悔ではなく愛しさ故のものであることに気がつく。これまでの日々と、今この瞬間と、行く先への愛しさ。悲しさよりも寂しさよりも愛しさが上回っているこの心を、私はなにより大切にしようと思う。

愛してくれて、ありがとう。愛されていることがわかったから、きっとこの先も歩んで行けるよ。

だから今、さよならと言って手を離せると思う。喪失の痛みに泣くことはあれど後悔ではないから。抱いた愛しさは、多分ずっと私の人生で輝き続けるから。

 

 

私のオタクテーマソングは『僕らまだアンダーグラウンド』であり、「僕だけでは貴方を満たせる事など無理かもしれない だけど 君だけではどうにもこうにもできないことがあるとするならば ああでもない こうでもないと 言葉だけが宙を舞って また今日も夜を超えてしまったんだ」という歌詞である。出会った当時の推しは今に比べると自己肯定感の低さが垣間見えることも多く、他のメンバーと違って俺は…と発言する様子もよく目の当たりにした。そんな彼に、あなたのことを好きな人がここにいるよ、と伝えたくなったのが接触に参加するようになった理由のひとつだ。私の名前の認識はしなくてよいから、ただただあなたを好きだと思っていることが伝わればいいなと思って。そうして言葉を重ねてきた。

先日不意に推しから「そらちゃんなんて100%俺のこと好きじゃん!」と言われた。嬉しかった。これまでの特典会で時折り「大好きだって伝わっているよ」と言ってくれていて、もちろんそれを信じて喜んできたのだけれど。ああこれは伝えた全てが伝わっているなと思った。にこにこと愛しそうに微笑むものだから、朝から泣きそうになってしまった。

ああでもないこうでもないと時には思い悩んで重ねてきた言葉が、彼の糧になっていたこと、自分のことを大好きな人がいると偽りなく伝わっていたこと、この上なく幸せだと思う。

彼に伝える言葉に悩んで夜を超えることは、もうないけれど。私が彼にこれまで伝えた言葉がその先の人生のどこかで少しでも輝いてくれたら嬉しいなと思っている。

そしたらおやすみ。あなたも私も、交わした言葉と過ごした時間が、心を休めるひとつになっているといいな。

 

 

昨年6月のあの日から、またあしたと約束を交わすことを意識して過ごしてきた。それは対オタクのみならず、推しに対してでもある。

私が彼に「またあした」と笑って手を振る日はもう来ない。

この期に及んで、自分がその約束にいかに支えられていたかがわかった。また会えるから、また話せるから、だから胸張れるようちゃんと生きていようと思えていた。

直接言葉を交わせる機会はもう来ない。あの愛しさを詰め込んだ表情を私に向けてくれることももうない。それでも私の生活は続いていくわけで、正直残酷だなと思う。でもその残酷に溺れてしまうより、これまで積み重ねた「またあした」によって続いてきた幸福を忘れない自分でいたい。彼に胸を張れる人間でいたいことはこの先もずっと変わらないので。

またあした。そうして重ねてきた日々を、かけてもらった魔法を、ずっと忘れない。

 

 

あなたが認めてくれた私の言葉を、私はこれからも大切に歩んでいこうと思います。認めてくれて、受け取ってくれてありがとう。

さよなら、おやすみ、またあした。

春爛漫に祈らない

 

 

推し切るって何だろうなと考えている。

どうあがいても推しが卒業する未来は変えられなくて。例え自分が”いいオタク”であろうともきっと自分が後悔することは避けられない。どう頑張っても自分は何らかの後悔を抱くだろうと当然のように考えていた。

推しが「みんなには後悔しないでほしい。推し切った!と思ってほしい」と発していたのを聞いて初めて、後悔しない未来もあるのかもしれないと思えたのだ。そして、そのためには、と冒頭の問いに戻る。

 

これはあくまでも私の捉え方だけれど、自分の「後悔は避けられない」と考える要因のひとつは泣いて暮れる日々が待ち受けているだろうなという予感だ。こんなに大好きな人たちと、愛しき日々と、別れを告げなくてはならないこと。当然のように隣で話を聞いてくれた世界一信頼できる人と会えなくなってしまうこと。どれもこれも想像するだけで今でさえ涙がこぼれてしまうのだ。

泣くことと後悔することは、必ずしもイコールではない。

ここ数日になってようやく気付いた。愛しさを思い出して泣くこと、会えなくなった人を想って泣くこと、自分のこれからの日々を憂い泣くこと、どれも後悔ではないのだ。

 

私は昔から泣き虫で、自分が悪くない場面でも泣いてしまうことが多かった。その度に叱られ自分を責めていたけれど今ならわかる。泣くことは、悪いことではないのだと。

だからここからの1か月、あるいはその先の日々で涙に暮れることがあっても、どうか自分を責めないでほしい。雁字搦めにならないで、落ちたその涙を貴方だけは無かったことにしないでほしい。彼らも歌うように美談にする必要はなく、無理に受け入れなくてもいいと思うから。

 

冒頭の問いへの現時点での私の答えは、言葉を惜しまないこと、だと思う。

 

推しが卒業する未来は変わらない。言葉を尽くそうともそれは変わらないけれど、それならば、自分ができる唯一の贈り物が彼の行く先の後押しとなってほしいのだ。

勿論会えなくなってしまう友達に対しても一緒で、ほんの少しでも、この先の人生の一助となれたらと思う。

 

秋の終わりに差し掛かり、冬が来て、また春になる。春爛漫のそのときに笑えなくともいい。前向きでなくとも、抜け殻のようになってしまってもいい。春爛漫には祈らないけれど、人生が交わるその一瞬があなたにとって輝きであることを祈っている。

 

どうかみなさま、ご自愛ください。それでは。

2023.11.8

陽炎と天秤

 

夏の終わりはブログを書きたくなりますね。と言いつつ7月以降4本目のブログという驚異の執筆スピードを見せているわけですが、私がブログを書く理由の一つは「忙しさや疲労にすぐに足を取られて大切なことを忘れてしまうので、思い出せるようにしたい」というものです。こんなに書きたくなるぐらい大切なことが私の周りには溢れているともとれるでしょう。

 

去年の夏が相当楽しかったので今年も楽しく過ごせるだろうと思っていて、実際あまりにも楽しく過ごせました。寂しさは常に付きまとうけれど、どのライブ、どのイベントに足を運んでも楽しかった!!と毎回言いつつ帰路につけました。なんでしょうね、彼らのライブでしか得られないこの多幸感って。ひとりで観ても楽しいし誰かと観ても楽しいし、ひとりで帰っても幸せだし誰かと帰っても幸せだし。楽しさと幸せと寂しさと祈りを詰め込んで全速力で走る夏は生きているだけで暑くて、濃密で終わらないでほしくてでもあっという間に過ぎ去って。ひとりでいたり、誰かといたり、いろんな形の中で日々を織り成し進んできたこの愛しき季節に、別れ難さを感じるほど。

蝉も暑さも結構苦手だから夏は好きじゃなかったはずなのにな。人ひとりの好き嫌いを変えてしまうほどのパワーを持った人たちに出会ってしまったということ、一生忘れないんだと思います。忘れないどころかこれからもずっと自分の人生にあり続けるんだろうなと、確信しています。

 

人生と言えば。

最近推しが「みんなの人生に寄り添いたい」と以前よりしきりに口にしています。彼の言うこの言葉はどんな状態を指すのでしょう。立場違えばプロポーズのような言葉だし、案外抽象的で解釈を迷うものです。例えば全国各地でライブやイベントを行うすなわち足を運ぶということって”アイドルが会いに行く”という言葉で済んでしまってもいいと思うのですが、彼らからすれば”できるだけ近くに来た”という言葉に留まるわけで。だから会いに来て、とその後に当然のように口にするところに私たちの想像を容易く超えてくる認識があるのだと思わざるを得ないなと心の底で思うのです。これは一個人の解釈に過ぎませんが彼の(はたまた彼らの)言う「人生に寄り添う」という言葉の意味は、日々に溢れる様々な感情や出来事を共有して、時には共に涙して慰めあって生きていくことなのかなと。それが配信でのコメントとのやりとりだとか、特典会での他愛もない会話だとか、ライブ中の視線やコールだとか、形はいくらでもあるでしょう。それら全て特別だけど当たり前とすることがその、寄り添うという言葉に相当するのではないかと思うのです。

自分が自分を尊重し、楽しむ姿を見せることが恩返しだと考えている自分がここにいて、それでも「これが最後の〇〇かもしれない」と怯えるときがあります。最後と思うと後悔したくないという気持ちが出てきてしまって欲張りな自分に途方に暮れて。雑多なる日々のあれこれを推し測る間もなく飛び出して、全速力で向かうその先であなたの人生にもちゃんと寄り添っていたいんです。私が私でいることは日々の中で特別だけどあなたの前では当たり前にし続けたい。

 

全て現実であることに間違いはないけれど、暑さと熱さの果てに揺らめく幻だろうといっそ構わないと思えるほどに溢れるほどの感情に出会い月日は過ぎた。

この天秤は傍から見れば狂っているように見えるだろうか。とっくのとうに判断力を失って猛スピードで走る様はある種の滑稽とされるか。幾つもの季節を得て強かに強欲になった私の天秤は最終的には”人生の正解”に傾くことを誰よりも自分が、知っているので。

彼らのことを語るにおいて愛という言葉ばかり使ってしまうのでそれをあえて使わず思考し書いてみましたが、それでも最終的には愛に行き着きますね。その愛で敷き詰められた日々を歩いて、そしてそれに全力で返す様をまた、信頼と呼ぶのだろうと思います。

 

2023 夏の終わり

コンパスの針はぐるりと回り、それでも旅は続いてゆく

 

 

生きていたくないと思っていたはずが長い道のりを経て今では「生きている自分を信じている」と思えるようになった。と気づいたのはごく最近のことだ。

 

人を信じることが怖かった。親しくなって相手に自分のことを褒められて、とてつもなく死にたくならないか怖くて仕方がなかった。だから推しに長らく名乗ることもできずその距離が縮まることを恐れていた。好きなのに恐れながら特典会に足を運んでいた。そのはずだったのに、ひとつひとつ丁寧に重ねた時間の中で自分を認められるようになって、褒められることを素直に受け取れるようになった。何より推しが向けてくれるその眼差しと言葉が嘘偽りないもので、自分の感じたまま受け取っていいのだと心から思えるようになったことが大きい。

そもそも誰かの人生の登場人物にはなりたくなかったし、才を認められたくなかった。褒められすぎて歪んだこの価値観は人生リセットしなければ変わらないだろうと諦めて日々を眺めていたはずなのに。いつからどこから心の風向きは変わったのか未だにわからないけれど、この出会いが1番のきっかけであることは確かだ。たくさんのきっかけを与えられて、拾い集めて、そうして見出されたのが今の自分であるならばこれを幸運と呼びたい。

人の役に立つ人になりなさいという声を繰り返し聞いてきて、まるで今の自分では生きているだけでは何の役にも立たないのかと傷ついてばかりいたけれど。自分のために生きて、誰かを愛して、その誰かに恥じない自分でいるために目の前の出来事に誠実に向き合って、いつかその誰かに届かなくなる日々の中でもその自分で居続けようと誠実さを忘れずにいることが"人のために行動する"ということなのだろうと今では思っている。これが世間的に正解なのかはわからないし、純粋な奉仕の精神では決してない。だけどもこれは私がこの日々の中で見つけた確かな道標なのだ。

 

出会ったころの日々に抱いていた言葉とはまるで違うものを今では抱くようになったけれど、これは悪しき変化ではないと胸を張って言える。正反対と言えるほど私のコンパスは違う方向を指すようになったけれども、いつか船を降りたとき、まるで航海記のページを捲るようにこの日々のきらめきを思い返せたら嬉しい。願わくばあなたの航海記のどこか輝かしい1ページに、私が登場できたらこれ以上はないだろう。少なくとも私のそれには、既に多くのみんなが登場しているから。

変わりゆく世界の中で、変わらないものをきっと見つけたい。あなたと私の関係性が変わりないものであることをただ信じたい。

あなたも私も、そのコンパスの指し示す方向が、進む道が分かれようともこの旅は続いてゆく。どの道も幸多からんことを願うばかりだ。それでも今はまだ、手を取り寄り添い進んで行けたらいい。

 

 

MeseMoa.の日 おめでとうございます

溢れんばかりの感謝を込めて

2023.8.16

 

 

 

 

 

自分の価値観が自分でも驚くほど変わったこととアイドルを卒業するメンバーがいることを重ね合わせてこのタイトルにしました。卒業を選んだメンバーのコンパスが狂ってしまった、その人の考え方がガラッと変わってしまったという意味合いでは決してないことをここに書いておきたいです。その人自身の最も根底たる軸、即ちそのコンパスの指し示す方向は変わっていないだろうけど、職業だけに着目するとアイドルとしての道を指していたそれが別の道を指すようになったことを表すべくこの表現を使っています。本文中にもあるように変化を全て悪しきものと捉えず受けとめたいという、私として肯定的な意味合いです。とはいえやはり寂しいけどね。

いつか世界に触れるまで

 

※例のごとくにーちゃん聖誕祭2023のネタバレを(少し)含みますのでご注意ください

 

 

「歌が1番自分の気持ちを伝えられる」という彼の言葉が好きだ。少し悲しそうなその声色も含めて。ただし卒業を明らかにしたうえで”どこに行ってしまったの”と歌うのは、言葉を選ばすに言えばずるいの一言に尽きる。

ずるいのに、さみしいのにそれでもこんなに好きなんだからしょうがない。

アイドルと言えば”愛してるという嘘”というフレーズが頭を過るようなこの世界のなかにいながら彼は全然嘘がつけない。彼の発する”好き”は私たちが受け取っている以上にきっと本物の感情だし、そう信じなくては彼が悲しげな表情をするのはこの何年かでわかったことだ。

 

嘘を吐けないそんな彼から私の内面をすごく的確な言葉で褒められたことがある。手紙やリプを読んでくれただけではなくて、そこに記した言葉以上のことを感じ取ってくれた。自分がなりたい理想像(ただし推しに対して直接言い表したことは無い)ぴったりのものを褒め言葉として急に渡してきたものだから、この数か月はそれを噛みしめつつ暮らす日々だった。この先変化を強いられようとも不変の根底として自分の中に守り続けたいような、そんな褒め言葉だった。

私にとってどんな局面でも隣にあり続けたのが言葉であるように、彼にとってのそれが歌なのかもしれない。練習スタジオで、はたまた自室にて、この世界のどこかでずっと紡いできたのだろう。彼の伝えたい意味そのままで受け取れているか正直自信はないけれどちゃんと、どんな風に受け取ったのか言葉にできる日々でありたい。私は言葉を書き連ねることで自分の世界に触れてきた。私もあなたに対して歌で返せたらなお良いが生憎その技術はないので、言葉で返させてほしいのだ。

 

聞き分けの良いふりをするつもりはなくて、本当はどうしようもなく寂しくて不意に涙して、全速力で走る他ないことはわかっていて、私がちゃんとあなたの思うような私で居続けられるかはわからないけれど。それでもまだ恩返しがひとつもできていないので、手始めにあなたに会えなかった3ヶ月半の話をさせてほしい。あなたにもらった褒め言葉とともに旅をしてきた私の話を、少しだけ聞いてくれたら嬉しい。私が私自身の為に選択できるようになった姿を見せることが、たぶん恩返しのひとさじになると思うから。

始まりの2019年、悩み苦しみながらも歩んだ2020年、またライブに足を運び始めた2021年、たくさんのはじめましてとひさしぶりを2022年に得て、そうやって鮮やかに進み広がった私の世界。手を引いてここまで連れ出してくれたのは紛れもないあなたなので、ひとまずこの世界のきらめきと彩に、あなたも触れてほしい。この幸福があなたにも伝わると、そう信じて。

 

 

子守歌でも鎮魂歌でも、私たちのところまで届かなくともいいから、あなたの歌がこの世界のどこかにあり続けることを、世界の片隅から祈っている。

 

にーちゃんへ

誕生日おめでとうございます

来年もその先も世界で一番祝福される存在であることを願っています

健康に、そして幸せでいられますように

イチブンノニな推したちと、ロクブンノキュウツアー

※ただの覚書ですが内容が内容なので精神的危機を感じたら遠慮なくブラウザバックしてください

 

 

これまでのツアーはそれぞれ1公演のみ足を運んできた私が今回のツアーで計5公演も行くことになったのは、自分が旅好きであることに気づいたのと、6人でも変わらず応援する気持ちを伝えたいのと。メンバーの卒業を経ても自分が彼らを好きでいられるのか、正直自信がなかったから。正確に言えば自分でも自分の心情がよくわからないままチケットを取っていたのだけれど今になって自分の感情分解をすればそういう理由だったのだと思う。

実際とても楽しかった。本当に令和の時代かと思わず疑ってしまうようなレア演目も多々あり、声出しは本当に体力勝負だったけどその熱量のぶつけ合いが楽しくて仕方がなくて、彼ら6人が9人を全力で背負っていることもひしひしと感じた。6人のツアーだったけど、間違いなく9人のライブだった。活休メンバーのオタクをも置いていかない彼らの愛が込められていたように思う。ひたすらに楽しかった。毎公演異なった感情に気づかされて受け止めることができた。

私の場合は推し2人のうち1人は活動休止で進退未定、もう1人はツアーに参加し来年以降も活動を続けることが決まっているというニブンノイチの状態だった。ツアーに足を運びながら、またそれに至る日々の暮らしの中で、彼ら2人のことを考える毎日だった。公演前の特典会で言葉を交わしては推しと話す空間の居心地の良さが更に深まって、その一方でアイドルを続けるのかどうなのか勝手に悶々としては迂闊な言葉をかけられず手紙も特に送れないまま。ステージ上にいるのはニブンノイチであれど自分の中では常にイチブンノ二だった。楽しいけど苦しいし、早く知りたいけど永遠に知らないままでいたいし。

 

発表を受けて最初に感じた正直な気持ちは絶望でも悲嘆でもなく、ああそうかという納得に近いものだった。完全な納得ではないけれど。そして推しがその日に行った配信を見て気づいたのは、「健康でいようね」「自分の選択をしてください」と今年2月の特典会で交わした約束をどちらも守ってもらえたということだった。悲嘆に暮れているわけでもないのに何故だろうか涙は止まらず、それでも画面の向こうの推しが少しすっきりした表情をしている(ように私には見えた)ものだから、悲しくはならなかった。この人がどれだけグループが好きか、オタクが好きか、どんなアイドル像を抱いているかなんとなくわかっていたし、それでも彼がきちんと自分の人生を選ぶことができたということ。よかったな、ありがとうと勝手ながら思ったのだ。

6月にひとつ歳を重ねたこともあり最近自分の人生についてひとり思い悩む日々だった。自分が今している仕事、恐らく生涯続けることはないだろうなと前々から思っていて、では他にやりたい仕事があるのかと問われれば押し黙るしかないけれど。”今している仕事をいつか辞める想定が自分のなかにある”という意味では、もしかしたら推しも近いところにあるのかもしれない。アイドルと一般職では重さがきっと違えど、そういうことなのかなと思えてしまった。

 

推しそれぞれと初めてお話してから今年末で4年を迎えるわけだが、この4年間交わした言葉や共有した時間、向けてもらったまなざしが少しずつ私のことを作り上げていって、私自身も自分の人生の選択ができるようになったと最近になって気が付いた。具体的にやりたい仕事などを挙げられるわけではないけれど、自分の幸せのために自分を守りたいという思いが強く確かに形成された。恐れ多いながら推しに「自分の軸があるよね」と褒めてもらったことがあるけれど、それを見つけ出してくれたのは間違いなく彼らなのだ。愛を持って接してくれて見つけ出してもらったその軸を私はこれからの人生ずっと大切にしたいし、これがあればたとえ彼らを追う日々が幕を下ろしたとしても自分の人生を自分の為に選んでいけるなと考えるようになった。

 

彼が彼であることはこれからも続くみたいだし、まだまだステージに立ち続ける彼もいる。私の中ではこれから先もイチブンノ二であることを確信した2ヶ月だった。

さあ夏が来る。9人勢揃いして輝く彼らを目に焼き付けたい。個人的には綺麗な思い出として仕舞うために会いに行くのではなく、その時々で得る感情をありのまま受け止めて、不格好でもいいから精一杯私でいたい。もちろん愛を伝えることは忘れずに。

今年も楽しい夏になりそうだ。